(山形県)文和三年阿弥陀板碑
阿弥陀信仰、浄土信仰が文和三年(1354年)には、この地に届いていた。
1354年というと、足利尊氏の没が1358年なので尊氏存命の期にあたる。また、吉田兼好の没もその頃にあたる。南北朝時代である。
阿弥陀信仰に関連する僧の滅年を記す。
・教信~866年
・空也~972年
・源信~1017年
・一遍~1289年
南北朝時代には法然の浄土宗立宗も完了し、親鸞の流罪も解かれ、一遍による東北行脚も済み時間軸的に矛盾はない。
所在:南陽市漆山大仏
指定:昭和 3 0 年 8 月 1 日
この板碑(いたび)は、文和三年 ( 1354 年 ) の南北朝争乱の時代に建てられたものである 。 その頃は阿弥陀信仰が盛んで、信仰心の厚い(ママ)手塚家の先祖が建てられたものと思われる 。
碑の石材は 、 高畠町日向から運んだものと伝えられ 、 高さ約 4 . 1 2 メートルと、県内では天童市の 「 山口の大仏 」 に次いで大きなものである 。 碑面上部の蓮華座に載る種字は堂 々 としたもので 、 時代的特色を有する 。昔、ひとりの行脚僧が吹雪に遭い、凍死寸前のところ大仏(おぼとけ)の民家に宿を求め、その時世話をしてくれた人の霊を供養するためにこの板碑を建てたという伝説や 、別の伝説も残っている 。
板碑上部に蓮華座、そしてキリーク(種字)が刻まされているのが見える。立派な板碑である。(定義上、どこまでを「板」と呼ぶのかは知らぬ)
板碑の裏にはそれを支えるように石塔が建てられている。また、板碑周辺にもたくさんの石像、石碑が散立する。草が伸びそれらをすべて確認はできなかったが。
あまり管理はされていない風であったが、それが逆にこの風景を美しいものにしていた。
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